ウルトラサンムーンをプレイしてみようと思う
お久しぶりです。
ゲームをし出すと記事を書かなくなる手打ちうどん奴はこちらです。
ゲーマーじゃないですけど、ポケモンはやはり辞められない。一度サンムーンで挫折したにも関わらずウルトラサンムーンに手をつけてしまう始末。
その挫折したSM(発売後すぐ)やってた頃はバンクが使えないことに愕然としていたり(今は使えます)、御三家までのムービーが長すぎて疲れたり(厳選したかったのだと思われる)、呼び出しシステムに呆然としていた。
何より…
ストーリーに抑鬱状態だった。
今考えるとそう悩むことでもなくね?って思うんですけどねぇ…。
結局の所、ポケモンと楽しく旅ができればいいんですよ。
当時はリーリエになんとも言い難い、それこそジェラシーのような感覚だった。ハプウがリーリエを褒め称えているあたりで「主人公も女の子なんだけどなあ…」と思ったり。
頭身が上がったり、Z技だとか新要素にわくわくしていた自分がどこかへ飛んでいってもはや呆れに近い、絶望を通り抜けた疲労感に苛まれていた。
リーリエの何が嫌だったかというとまず、
・「なぜか周囲に持ち上げられている」…これは男主人公だとダメージは少ないのでは。女の子だと違和感ありまくりですね。
・「自分は戦わないし、橋を渡っただけで成長している演出」…ポケモンの世界で見せて欲しいのは「ポケモンと向き合うことを経た成長」だと思うんですよね。ポケモンありきであって欲しい。人間としての成長も大事ですけど、リーリエはポケモンを戦わせるのが苦手、と言っている以上はそこを克服しないと。
・「主人公乗っ取りと思われても仕方がない演出」…リーリエがとにかく付いて来たりストーリーに関与×∞。回復するのは別にリーリエじゃなくてもできるんだよなあ…あっ(察し)
主人公の表情、多彩なリーリエに対してこれまた薄ら笑み維持なんですがどうなってるんや。また、ポニーテールはリーリエのみで主人公には搭載されていない。
…というのが数年前サンムーンを一通りプレイした感想である。
こうともなればそりゃ懲りる。伝説ポケモンでさえ「あの」リーリエの手垢付きとなればがっかりするのも致し方ない。
だが、数年も経てば人の心の荒波も少しは落ち着いてくる。気まぐれに心を任せ、支部(Pixivのこと)でサンムーンのイラストを探っていた。
すると、主人公が女の子でなく、男の子ならばリーリエとくっつけてもさほど気にならないだろうと感じた。
男の子ならナイトとしてリーリエを護衛するのもまあ違和感はない。強いられていると感じたらストレスだが。
そして次に、グラジオ×ミヅキ(女主人公の総称である)を散見する中、とある方の作品群を目の当たりにする。
そして私は思った。「あれ、グラジオってどんな感じで主人公と関わっていただろうか」
作品を見るあたり、一人のトレーナーとして、ポケモンを通して、主人公とライバルに近い立ち位置で向き合っている。そんな風に見て取れた。彼はぶっちゃけリーリエの兄貴だが、シスコンでもないし、厨二臭いポーズが目立つがないし中身は普通の真の屈強さを求めるトレーナーの性そのものだ。
その方の書かれる作品では、グラジオがミヅキのライバルとして、そしてミヅキに助けられて来たことも描写に練り込まれていて、私は盲点だったと気付かされる。
リーリエが核を担う中、主人公はポケモンを通し沢山の関わりの糸を繋いでいたのだ。
まだ希望は残っている。
私は百合も薔薇も好きだが、ポケモンは偏らない。二つに分かれた世界線として解釈しようと思う。
(例えば、ヨウ(男主人公の総称)が主人公ならば、リーリエは運命のナイト様に巡り会えた世界線である。)
そう、カップリング的に解釈すればリーリエ、グラジオの兄妹は主人公によってどちらかが運命の相手と巡り会えるのだ。ミヅキが主人公ならば、リーリエは将来本当の妹になる。そう捉えればリーリエは我が妹も当然。よしよししてあげたくなるだろう。
このような解釈は他の世代でも考えられる事であり、とても便利だ。それに、たまにヨウとミヅキが共存する世界で楽しく二次創作を考えるのも良いだろう。
こうして私の脳内会議は数年の末解決に至り、平和になった。
ありがとう、神絵師様。
イマサラタウンだがウルトラサンムーンダブルパックをAmazonで購入して来たので、また感想を投稿したいと思う。
以上です。